徹底研究シリーズ2021 開催レポート
「小林仁 J.S.バッハ:インヴェンション講座」全曲講座が終了いたしました。1/13(水)1/27(水)2/9(火)2/24(水)の4回に渡って開催された本シリーズには多くの関心が寄せられ、コロナ禍によるオンライン聴講となりましたが、たくさんの皆様にご参加いただきました。全4回シリーズのレポートをお届けいたします。
音楽学者H.クレッチマーをして「ドイツ音楽のすべてがここに集約されている」と言わしめた芸術作品インヴェンション。技術的なハードルが低いこともあり初歩の段階から教材として用いられますが、しばしばコンクールの課題として競争の場でも用いられることから、指導においても演奏においても虚飾に陥りやすく、本来のバッハ音楽のありのままの姿が見失われる危険をはらんでいます。
講座の冒頭では、そうした現状やバッハの時代の歴史的な背景にも触れながら、改めて「教材として」「芸術作品として」「作曲学的な対象として」という3つの視点から現代におけるインヴェンションの位置を探り、その音楽の本質に迫るという本講座の目的について、小林先生自身の経験とバッハ音楽との関りなどを交えてお話しいただきました。
続いて各曲の考察に先立って、本講座での分析において中核となる、以下の2つの観点についてご説明いただきました。
- 15曲すべてに共通する、「提示部+展開部+再現部」とみなしうる調性的関係を持った3つの部分による構成(シンフォニアでは必ずしも当てはまらない)
- 形式的な観点からの5つの分類
- インヴェンション型(主題と呼べないほどの短いモチーフ(動機)だけから曲を構成する…1番、4番、7番、13番)
- カノン型(主題が声部を変えて繰り返されるが、フーガ的な構成を持たない…2番、8番、14番)
- フーガ型(主題の5度での応答などフーガ的な構成を持つ…5番、10番、11番、12番、15番)
- ソナタ形式志向型(ユニークな分類、のちのソナタ形式に通じる構成概念を持つ…3番、6番)
- その他(9番)
上述の観点からの純粋な作曲技法上の視点からの分析を土台としながら、フィグーレ(Figure)などの修辞学的な要素、舞曲などから類推されるキャラクターやテンポ、アーティキュレーションの可能性など様々な角度からのアプローチが、ピアニストによる模範演奏を交えながら展開されました。
全体がただ1つの動機だけをもとに構成される第1番、リトルネロを挟んだバロック時代の協奏曲の様式とソナタ的な構成原理とを併せ持つ第3番。和声的に稚拙ともいえる動機から見事に楽曲を展開する第8番、カノンの様々な技法を盛り込んだ第14番、曲集の最後に置かれフーガ型の典型としてシンフォニアへの発展を予感させる第15番。第4番ではジーグ的な曲の性格からのテンポの設定などが提案され、第9番に関しては、長大な主題を漸次短縮していくという巧みな作曲上の技法のほか、宗教曲との関係、特に主題と曲の構成におけるマタイ受難曲との関連性の考察に、音源の視聴を含めて多くの時間が割かれました。また、装飾音符、特にトリルや付点音符に対する柔軟な考え方について、J.クヴァンツの言葉やツェルニーによる実用版での扱いなどを交えながら、芸術的な視点はもとより、初歩の教材としての視点からも貴重な示唆をいただきました。
ここではとてもお伝えしきれない各曲についての詳細な考察については、是非アーカイブ配信をご覧ください。
1曲が見開き1ページという自身の課した制約の中で、2つの声部による15の全く違う個性の楽曲を作る試み。考察を通してその作曲の過程を追体験することにより、インヴェンションという曲集の持つ驚くべき多様性を垣間見ることができました。
回を追うに従って参加者からの質問が活発に寄せられましたので、いくつかご紹介させていただきます。
教材としてどのような順序で生徒に取り組ませると良いか?
特に決まった順序はなく、得手不得手など生徒の特性に応じて指導者が決めるべき。難易度については、フリーデマン・バッハのための音楽帳で示された順序が参考になる。
特定の調性、和音、音型は宗教的な意味と結びついているのか?
9番でも触れるが、「ある曲の場合はそうした結びつきがみられる」という程度にとどめておくのが良いのではないか。すべての曲で当てはまると考えるのは行き過ぎ。
(9番の考察で視聴した)マタイ受難曲の演奏者について。
エリオット・ガーディナー。この指揮者の演奏はピアノの立場からも大変参考になる。
また、最も多く寄せられた「アーティキュレーション」に関する質問については、第4回講座の冒頭で特に時間を割いていただき、「曲想」「弦楽器のボーイング」「言葉について」という3つの視点からのアプローチについてお話いただきました。「曲想(曲の雰囲気)」は比較的イメージが簡単ですが、「ボーイング」については弱拍=アップ、強拍=ダウンであることを基本としながらも、バッハの時代と現代では弦の奏法が大きく違っている点に留意すること。「言葉」についてはシンフォニア第13番のテーマにしっくりくる歌詞"Kyrie eleison"を当てはめながら考察され、いくつかのアーティキュレーションの可能性が分かりやすく提示されました。その上で、最終的にアーティキュレーションについて万人に共通する答えはないこと、その場その場で自分の考えを見つけていくことの重要性を強調されました。
4回にわたるバッハインヴェンション講座でしたが、お話の中で(アーティキュレーションをはじめとする)解釈の問題について、他人に頼ることなくことなくあらゆる角度から自身で考えて答えを求めること、そうした過程を通して「音楽の本質とは何か」ということに思いを馳せて頂きたい、との言葉がありました。小林仁先生を囲んだ充実した時間は、バッハ音楽の持つ世界の奥深さを再認識するだけではなく、自らの芸術音楽に向き合う姿勢を見つめ直す貴重な機会となりました。
コロナ禍による非常事態宣言下で外出や集会が制限される中、この素晴らしい講座を届けてくださいました小林先生とスタッフの皆様に、一聴講者として改めて感謝申し上げます
レポート◎松浦健(演奏研究委員会)